縁起

求法寺から弘法寺へ

ここ真間山 弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代天平九年(737)に行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘・手児奈(てこな)の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われました。

それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称されました。


法華経の道場へ

その後 鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持・了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺・富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられました。

その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなりました。


諸堂の再建

当山は元亨三年(1323)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正十九年(1591)に徳川家康公より御朱印状を賜りました。

しかし明治二十一年(1888)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、明治二十三年(1890)に諸堂が再建されました。